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外傷体験を引き寄せの法則として捉える

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トラウマ関連やスーザン・フォワードとかそういう本ばかり読んで考えて言語化していたせいかこの所あまり思い出したくない事を思い出し何もできないような時間が増えてしまって、それで推定3,4年ぶりにエスター・ヒックスの『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』を開いた。

私は昔から今まで、人は大人になるにつれて成長して進化していくというよりも、元々あったものを忘れ失っていくというイメージの方がだいぶ強い。これは身の回りの大人が成長することを止めた人たちだったからというのも大いに影響していると思う。取り入れるべき大人の模範となる情報が私の周りには少なく、取り入れることで健康と生存性を損なうような情報が多めだった。
でもそれのみに留まらず、より広く世の中を見渡しても、年齢を重ねるほどに必要以上に己の自由度を下げ、そしてその自由度が下がることを大人になったことの勲章であるかのように捉え、その信念を他人にも伝播させようとする人は決して少なくないように感じられる。



私には今の所自分の人生を(良くない方向に)大きく変えた2つのターニングポイントがあって、それらを昨今“トラウマによるもの”と認識するに至った。精神医学的な視点に立てば恐らくこれは正しい。但しトラウマによるものといっても、ナイフが刺さった肉体が損傷するように、体験そのものが心の傷に直接結びつく訳ではない。トラウマには以下の3段階の構成要素がある。

1. 出来事
2. その出来事を受けてどう感じたか
3. その感じ方を受けてどう行動したか
(何かの本に書いてあった内容であるはずだけど引用元が思い出せず、思い出せたら後で明記するけど一応丸パクリでは無いはず)

同等の出来事に遭遇しても問題が起こらない人とそれが心の傷と化す人がいるのはこの為だ。更には外的要因にも左右され、例えばハーマンは戦争体験によるPTSD症状が見られた人とそれを回避した人との差として、戦地での悲惨な体験をその場で共有可能な仲間や、上官からの激励や鼓舞、それらの有無を大きな要因として挙げている。上記3点を私自身の1つ目のケースに当て嵌めると以下のようになる。

1. やることと人間関係について同時期に強く干渉されたこと
2. 強いストレスを感じると同時に親といる限りこの先もずっと親の方針と価値観を強制し続けられる未来を想像して絶望した
3. 絶望した結果「自分の人生は親のものだ」と強く自己暗示を掛け続けた

この場合1単体では恐らくそれ程際立った内容ではないのかもしれないけど、日常的な両親間の不和とかそれによって感情の吐き出し場所が無いこととかたまに理不尽に飛んでくる暴力とかそういう細かい積年の累積があるなかで、これから具体的な一人の時間と空間を形成していこうとなってきたにも拘わらず自立の為の発露が悉く潰されたなという感じで、少なくともこの時点では勉強もその他のことも概ね誰にも文句は言わせない程度の水準を保っていたこの頃の私からすると、何をどうやって努力しようとあまりに強固で凍結し錆びきった親の価値観を解かんとすることはあまりに不可能に感じられて、そんな人(たち)と最低でもこの先何年かは共生しなければならない未来を想像すると何一つ希望が見えず、まさに世界と完全に切り離されたかのような感覚に陥った次第である。

その絶望感を受けて、それまで片手で数えるほどしか泣いたことがなかった私は、それから約2週間程度の間本当に毎日泣き続けた。毎晩の夕食時に「僕の人生はあなたのものだよね?」みたいなことを聞いて、当然の様に「当たり前、あなたは私のもの」みたいな答えが返ってくる。書いていて思ったのだけれども、実家にいる間私が自身の感情をある程度以上表に出したのは、この時が最初にして最後だったような気もする。ほんの少しでも考えを変えたり自己を省みてくれる可能性を信じたくて、(本当は僕が僕自身で考えて決めるのが正しいよね?)との意思を込めながら、「あなたのものだよね?」と聞く。そして何の逡巡もなく即座に、「当たり前でしょ」と返ってきて、それを受けて涙を流しながら“自分の人生は親のものだ”と頭の中で何十回も何百回も反芻する。
この何も変わらない一連のやり取りを毎日続けて2週間ほど経った頃、自分が明らかにそれ以前の自分から変質したことに気付いた。頭の働きが明らかに弱くなり、世界に膜が掛かっている。今そこにいるということが分からず、何をしても楽しくないし充実感がない。これ以降勉強も運動も右肩下がりになっていき、人との自然な会話の手法も場の空気の読み方も分からなくなっていった。



例えばこれをトラウマとしてではなく、“自分の人生は親のもの”という信念が叶った結果だと捉えてみる。引き寄せの法則にはタイムラグがあるので思考がすぐに現実に反映される訳ではないけれど、仮にも11歳というエネルギーに満ち満ちた時期の、しかも感情をその内に抑制せざるをえない環境に生きる子供が、溜め込んだ全てを2週間の間その信念に費やし続けたのだ。現実化しない方がおかしい。

この一連の流れはよく覚えていて、10代の頃から何度もここに立ち返ってそれ以前の自分に戻ることを想像したものだけど、うまくはいかなかった。20代でスピリチュアルに触れるようになって引き寄せの法則についても知り、例えば逆に「自分の人生は自分のものだ」とか意識していた時期もあったのだけどやはりうまくはいかなかった。
これも今考えれば当然だと思う。10代の頃も20代の頃も、私の感情の根源には常に親やその関係者に対する恐れや憎しみがあって、それは表層的な意識を変えようと試みたところで打ち消せるようなものでは間違いなくなかった。実生活では電気や水道も止まって、完全に破綻した状態でなんとか働いて稼ぐことを考えなければならなくて、でも身体と心は動かなくて。個人の力の限界を線引きするのは難しいけど、どうにもならない他人のことを含めて、当時の私はあまりに多くのことを1人で秘匿し抱え込もうとしていた。「良い気分でいる」ことなど今考えても無理だったと思う。社会的支援を早々に頼らなかったこと、そういう資格を有するのだと自己を肯定できなかったことが、20代の失敗の根本だ。

幸いなことにか私は子供の頃の出来事や感じ方も大方覚えていて、だから引き寄せの法則について読んでいると、その頃持っていて今は忘れたものについて度々考えさせられる。私はそれ程行動派という訳ではなかったけれど、手に入れたいと思ったものについては全身全霊で自分を奮い立たせて、つまりエスターらの言葉を借りるなら最大限に“波動を高めて”、そして実際に結果を手にしたものだ。心の底から楽しみ結果を全力で期待して(欲して)いれば、一見して何の努力もしていないようでも(もちろん最低限の行動は必要だけど)成果は出たし、逆に自分と離れてしまってからは、形として一定の努力のようなものはしたつもりでも結果は全くついてこなくなった。

それにしても上述の個人的な挫折を除いても、不思議と人はそれを才能だとか能力だとか集中力だとか(集中力はある意味正しいと思うけど)そういう言葉に置き換え、大人であればあるほど世の中や人生はそう甘くないしうまくいかないのだと教えてくる。そういう人たちに従って真面目な“大人”であろうとすればするほど、原始的な調和と幸福から外れていくという戸惑いは自身とても強く感じていたりしたものだ。



そういう訳で有難いことに、生きることの保証を得て、身の回りを好きなもので固めたりやったことの無かったことをやれるようになってきて、完全にとは言えずとも負の感情と記憶に支配される時間も大きく減った今、改めてスピリチュアル的な方針に則り、感情を観察することを意識したり良い気分でいることに努めようと考えるのであった。精神医学の視点が不要なものだとは思わないけれど、それ一辺倒にすることは特に今の私には幾分心の負担が大きい。



追記 : 引き寄せの法則に関して、Wikipediaに記された批判の項を一部引用しておく。

精神医学の分野では、ニューソートに代表される引き寄せの法則、ポジティブ思考は、誇張的で科学的根拠があいまいな非合理的思考パターン「認知の歪み」であり、実践により抑うつ状態や不安を永続化させる可能性が指摘されている[4]。歪んだ考え方によって、現実世界を不正確に認識したり、過剰な自信を持ち、他者にも過剰な期待を押し付けるなど、人間関係や社会との関係に齟齬と軋轢が生じ、物事が期待した通りにいかなかった場合に、自己責任の意識、自責感が強まり、ポジティブ思考のはずが、逆にネガティブな気分が頭をもたげることがあるとされる[4]
(「引き寄せの法則」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2023年11月21日 (火) 19:46 UTC)

個人的に何点か噛み砕いておくと

1. 現実逃避ではない
多くの心理療法では曝露、つまり元となる出来事やそれに対する恐怖と向き合うよう誘導するようだ。これも否定されるべきものではなくて、ただ節度を保ったアプローチとしては何れもが有効なのではないかと個人的には考える。方やこの時代の科学に一定程度以上裏付けられた方向性、方や科学的な裏付けの薄い方向性。
2. 幸せの状態
10代の私が違えていたことの1つで、幸せとか調和のとれた状態というのは決してアドレナリンを過分泌したような過度の興奮状態ではない。エスター・ヒックスの言葉を引用すると、“わたしたちが「幸せな気持ち」というのは、うれしくて跳んだり跳ねたりするような状態のことではない。高揚した軽やかな気持ち、すべてが順調だという気分のことを指している。”
3. 他者に期待するものではない
引き寄せの法則とはまた別の話。言うまでもなく引き寄せの法則でも他者を変えようとすることを前提とはしていない。寧ろ、各他者それぞれの創造をそのまま受け入れることが要点の1つであるはず。
4. 自己責任論を強化するものではない
病気や性被害や戦争や災害も当人の引き寄せに依るものなのか、となるのが難しい。尤もこれは3と同様、他者に認識を促すようならその時点で引き寄せの法則は破綻しているのだともいえる。少なくとも私個人の私的な体験に鑑みれば、マイナスとされるようなものを呼び込んだのは自身の思考によるものだという認識には深く同感できるけれども、それは易々と一般化できるものでも、個人的な正しさを軽々しく他者や宇宙の正しさに重ねられるようなものでもない。安易にそれをやりだすと宗教やひいてはカルトになりかねない。線引きが難しい。前記事にも書いたように、窮状に瀕する人を救済するような社会的システムは、それはそれで必要だと私は考えている。

あらゆることに共通する事項だけど、確かなことは自身完全に理解しているとは言えないであろうことと、生兵法は大怪我の元ということ。

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