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『喜びから人生を生きる!』を読んで

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末期癌から臨死体験を経て生還した体験と、そこから得られた気付きについて書かれた、シンガボール産まれのインド人女性の方によるエッセイ。
ある時間軸の科学で証明できないものを人は“奇跡”と呼ぶ。だから数百年とか数千年とかずらせば“奇跡”は“常識”にすらなりうるし、私は奇跡=最近の科学では証明されていないらしいこと、くらいに捉えている。とはいえやはり生きている以上多かれ少なかれ自由度を下げたり定義づけしたりする訳で、私自身気付かぬうちに幾重もの常識のヴェールを纏っているのだろう。だからこうした現実の体験をベースとした“奇跡”の解説にはとても興味が湧くし、可能な限り自然言語で表現しようと試みてくれる人々に敬意を表したい。




自分への愛が強すぎるということはない

「自分への愛が強すぎる場合はないのかと、よく尋ねられます。おそらく、自分勝手や利己主義との境界線はどこか知りたいのでしょう。それに対して私は、自分への愛が強すぎるということはないと答えています。境界線などはありません。利己主義は、自分に対する愛が足りないために起こることです。」(p212)

私自身や私が見てきた人たちを振り返っても本当にその通りだと思う。他人や世界に行き過ぎた干渉をしたり他人をコントロールしようとするのは、その人のその人自身への愛が欠乏しているから、その人自身の人生を生きていないからだ。人を好きになれなかったり、好意からやっているという行動が嘘っぽいのは、それ以前に自分を好きでないから。日本においても自分を愛するとか言うとそれを利己的で非道徳的な行いだと反射的に捉え糾弾せんとする人は少なくないし、自分を深く追究・追求するということに不慣れな人はとても多い。
生まれ育ちに恵まれた人たちは全体としてごく自然にこれを分かっていて、まず自分を良くするということを当然にやってから、その流れでエネルギーを他人や世界に注ぐ。自分を満たすと隣人や世界をも満たしたくなるのは、本能のようなものだ。でもそうでない人たちにとっては、生存したり必要な自己を確立することもままならないにも拘わらず、他人の為とか社会の為という道徳的フレーズが独り歩きして襲ってきたりする。



内なる声

「自分の内なる声を聞くのをやめて、上司や教師や友人など外側の力に自らの力をゆだねてしまうのです。感情は魂への入口なので、自分の感情をブロックすれば自分の素晴らしさに気づけなくなるでしょう。それなのに、私たちは複雑な存在ゆえ、自分の感情をコントロールしようとしてしまいます。」(p223)

力は常に内側にあるのに、他人や社会は外側に過剰に注意を向けさせたがる。
感情をコントロールすること。10代の頃は常に意識していたことで、比較的最近もそういうことを他人に言ったりしていたくらい。でも人は動物でもあり、それがどんなものであれ本来感じたことをそのまま表すことはごく自然で必要な行為に違いない。

ピーター・ラヴィーンは「身体に閉じ込められたトラウマ」にてこう書いている。
“葛藤の元は、反対の運動パターンまたは未完了の運動パターンである。セラピー(および人生)の実践にとってこの重要性は計り知れない。”(p353)
ならば、それを表出させた時に(人生が失われかねないような)大きな感情(運動パターン)を停止させ封じ込めざるを得ずそうしてしまった時に、ヒトはどうやってそれを完了させるか或いは元の状態に戻るのか、それは私にとっての課題でもある。



批判や恐れを抱かないこと

「臨死体験中の理解から、私は、自分に対して批判や恐れを抱かないことがとても大切だと感じています。心の中で、自分は安全で、無条件に愛され、受け入れられていると思っている時、私はこのエネルギーを外側へと放射し、それに応じて外の世界も変えています。外側の世界は、私の内側の状況が反映したものにすぎません。」(p239)

現実を破壊しかねない己の怒りを危惧してそれを無理に押さえ込んだ状態を例えばトラウマというのだと理解するなら、恐れを抱かないことが大切だというのはよく分かる。
批判という言葉は本来(言うまでもないことかもしれないが)中傷とは別の意味で、良いところと悪いところを並べ冷静に評価すること…と私は最近まで捉えていた。ただSNSでの誹謗中傷の問題が取り沙汰される際、批判という言葉を実質的に非難や中傷と同義であるかのように扱う人が多く見られるのはずっと前から気になっていた。言葉は変遷するもので、最早批判も=非難くらいに捉えておいた方が良いのかなと今は考えている。
原書でのニュアンス次第でもあるけれど、少なくとも日本語訳のものをそのまま受け取るならば、アニータは「自分に対して批判を抱かないことが大切」と書いている。特に10代の頃常に自己批判を繰り返してきた私にとってはこれは立ち止まって考える必要のある問題かもしれない。そもそも自己批判が必要になったのは、己の中心から遠ざかることになったから。そしてそれ以前はというと、行き過ぎた“教育”の元で「もっと頑張らなければ」とか「自分がしっかりしなければ」とか自分を奮い立たせようとすることは多かったものの、批判、少なくともそれによって強く自分を縛るようなことは確かになかったように思う。
社会的に, 経済的に, 人としてetc自分が心中で自分を判断し評価している項目を改めて俯瞰すると、常に直感に従った生き方さえできていれば、自己批判というものは実際そもそも必要ないのかもしれない。



自分の心に従う

「物事を正しくしようとか、規則や教えに従おうとか、もうまったく気にしていません。私はただ自分の心に従っていて、そうしていれば間違うことはないとわかっています。その結果、皮肉にも以前よりもっと多くの人を喜ばせるようになりました。それは、私自身が前よりずっと幸せで、自由だからでしょう。」(p231)

自身の経験則のみを見ても本当にその通り。自分の心に従っていて自分も楽しめている間は人にも好かれ喜ばれるし、自分の心に背いていると人にも軽く見られたり不快がられる。一見人を喜ばせているように見えても、その人自身の心が伴っていない場合、どこか朧気だし長続きもしないものだ。



一つ教義を作るとしたら

「もしヒーリングに関するスピリチュアルな道について一つ教義を作らなければいけないとしたら、リストの一番目にもってくるのは、“毎日必ずたくさん笑うこと”です。これは文句なしに、祈りや瞑想や詠唱や食生活の改善よりもはるかに効果的と言えるでしょう。」(p283)

自然な笑い方が元々分からなくて、時々笑顔を練習してみたり、意識して笑ってみたりするのだけど、すぐに忘れて元の無表情に戻ってしまいがちだったりする。逆に何かに対して怒りを向けているとやはり気分は悪くなるし身体が硬くなるので、これも本当に定着させたい習慣の1つ。会話も映像もハードボイルドに寄る傾向があるので、単純に笑えることも意識するようにしたいな。



ラベルづけ

「『あなたはラベルづけをしないと言いましたが、エンパスはラベルではありませんか?』と言う人がいます。これに対して、私は次のように答えています。もしそれがあなたを箱に閉じ込め、窮屈にするようなら、それはラベルです。でも、もしあなたを解放し、より自分のことを理解する助けになるのであれば、それは役に立つ表現だと言えるでしょう。」(p298)

名前をつけるでも書いたことで、私は自分の状態にラベルをつけることに長いこと抵抗があってそうして来なかった。しかしベッセルの文章に共感し、それを久しくやるようになった。かつての方針を形成した心療内科での体験は、前提からして歪められていた為、私を明瞭にせんとするものではなく、明らかに私を箱に閉じ込め“治療”する為のラベルづけだった。
今は自由になる為、自分と世界を解す為の表現なのだから、私は正しい。



手放すこと

「手放すこと。ありのままの自分でいるには、不必要なものを手放す必要があります。自分の人生のある側面を変えようとしている時、私たちはつい何かを始めようとしがちです。本を買う、講座に申し込む、自分が恐れていることを毎日五つずつする、といった具合に。そうではなく、まずスペースを作る必要があります。」(p308)

とても同感だし、捨てる必要のあるものを捨てないまま新しいことを始めて、失敗するべくして失敗するような光景を何度も目にしたことがある。
自身一度大半のものは捨てたつもりで、しかしこうして改めて振り返ってみるとまだ捨てきれていないなと思う。スマートフォンとPCに向かう時間は、少なくとも10代の私には必要だったものだ。逃避先が何であるかは個人の趣味趣向はもちろんのことだが環境にも大きく依存すると思う。例えば私が薬物やアルコールや自傷行為に依存していたなら、母親によって即座に精神科に連れていかれ、さながら代理ミュンヒハウゼン患者のような状況を余儀なくされただろう。他人への暴力や不良行為であれば、行き先が警察等へ変わっただけ。私の場合はインターネットの空間が唯一許された逃避先だった(厳密に言うと、それも他人の説得によって渋々用意されたものだったが)。それがあってギリギリのところで大き過ぎる迷惑は掛けない程度の自分を保つことができたし、それがなかったらこうして自分の為に自分の時間を使える自分は既にいないと思う。
ただ、それは最早過ぎ去ったことであって、少なくとも今の私は自分の身体と心を、時間と熱意を、私自身の好ましいところへ向けることが出来る。…その為の資本である身体と心そのものが覚束無いものの、少なくとも当時あったような、何かに逃避・依存しなければどうしようもないような圧倒的ストレスは少なくともこの時間と空間にはない。にも拘わらず、かつての余韻であるかのように、必要以上にデジタルに無為な時間を割いている度合いは少々多いなと自省する。
薬物やアルコールなどの摂取する必要性自体はないものと違って、寧ろ現代人の生活には必要不可欠と言っても過言ではないことが問題を紛らわしくはするけれど、手放すことを考えた時自分の中で真っ先に思い浮かんだのはこれだった。



ありのままの自分を生きるということ 

「私たちは、いつも自分に似たものを引き寄せています。ですから、私が自分に対して優しくすればするほど、外側の出来事もそれを反映するでしょう。私が自分に対して厳しく批判的であればあるほど、私の状況はそれに見合ったものになるのです。宇宙はいつも、私の自分に対する意見が正しいことを証明しています。」(p242)

20代の自分が最も繰り返し考えていたことの1つが「生産性のあることをやらなければ」。これは当時ほどではないものの今でも感覚としてはあって、尤も自身の生き方を考えた時に、何かしら積極的に発信していく必要があるなということを感じている部分もあるので、そちらは至極真っ当だと見ているのだけれども、ともあれ子供時代ありのままの自分を生きられなかった人が、大人になって半ば脅迫的に仕事や人間関係に追われているケースはとても多いように見える。(遡れば10代の頃も「何かしなければ」と常に思っていて、何もしていない自分を心の中で罰するような時間が頻繁にあった。)
先日動物園に行って、最も距離の近いカンガルーとじっと見つめ合ってきた。彼らは特に何をする訳でもなく、一日中寝そべってたまに立ち上がってちょっと動いて、たまに食料と水を摂る。それだけで何も咎められることもないし、寧ろ私たちのような客からその存在をありがたく思われている。他の数多の動物も同様だし、家庭で飼われている犬も、野良でうろついている猫もただ可愛くてそれだけで大半の人にはありがたく思われているか、少なくとも存在を許容されている。
人の場合は明確に社会というシステムがあって、生まれと育ちによっては、その中で価値を示さなければ生存そのものが脅かされかねない事情がある。とはいえそれは良くも悪くもそのシステムがそこそこ強固に整備されている現代日本人の感覚であって、生存そのものに必要なものは人々が考えているほど多くないとも思う。

インターネットによる発信が容易になった今の時代、声や顔を表に出して人を集める人は沢山いるけど、「何をしているか」という次元で分析すると、彼らの多くはそんなに大したことはやっていなかったりする。もちろん企画の面白さ, 洗練された技巧, 専門的な知識, 掛けた金や時間などなど行動の内容と程度も指標としてはあるけれども、それらが優れていることがイコール面白い・見たいとなる訳でもないことは確かだと思う。魅力, 雰囲気, 生命力, オーラ, 様々な言葉で言い表すことができるだろうけど、私が安心して長く見ていられるのはそこに中心を感じる人たちだ。

現実とのハイブリッド路線だと近年はレンタル何もしない人なんてサービスを提供する人も出てきて、彼は本当に基本として何もしないけれども、あらゆる場所に同行したり、一緒にご飯を食べたり、何を返すわけでもなくただ話を聞いているだけで、多くの人に感謝され、人の役に立っている。きっとこれを書いている時点で私が同じことを始めたとしてもまず成立しないだろう。その理由は私がまだただ存在しているだけの自分を許容できていないこと、何かしていなければ価値がないとどこかで思っていること、要はありのままの自分を生きているとは言い難いが故だと思う。
私が私を許容できていないが故に、人も私を許容しないのだ。



身体は知っている

「本当の自分でいるために病気のような口実を必要とすればするほど、あなたの身体は治癒の動機を失っていき、病気は一層長引くでしょう。身体には知恵があり、『もし病気が治れば、また自分を犠牲にしてでも他人を喜ばせようとするだろう』と知っているのです。そうならないように、本当のあなたになることを自分自身に許してください。本当の自分を生きたいという願いによって、病気を治してください。自分に問いましょう。『もし健康であるというお墨付きを今もらったなら、私は何をしたいだろうか?』そして、実際にそのことに着手し、あなたの人生を祝うことを始めるのです。」(p306)

特に20代の頃は、「良い状態を取り戻したら、私の理想と他人の理想を限りなく両立させた状態を実現させよう」とナチュラルに考えていた。明らかな無理を再演させない為に身体が良い状態になることに抵抗していたのだという視点は、私にはないものだった。
自分が完全な状態だったら何をしたい?という問い掛けはスピリチュアルの基本なのだけど、自身とても忘れがちだしつい自分の問題を解決するには、という視点に寄りがち。



自分の光を明るく保つ

「もしあなたがヒーリング、教えること、講演活動、自分のアートや才能を人々と分かち合うことに興味があるなら、自分の光を明るく保つことは不可欠です。さもなければ、あなたはみんなの要求や問題の中で途方に暮れてしまうでしょう。あなたのすべきことは、光の担い手であることによって、周囲の人々の気持ちを明るくすることなのです。」(p321)

私が最近直面している現実的な問題の核心そのものといえる。

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