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『母という呪縛 娘という牢獄』を読んで

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秋葉原通り魔事件の加藤など、この手の境遇を経た人の事は一通り興味を持って調べはするのだけれども、本を買って読むのは今回が初めてだったりする。自己整理の必要性を感じてこのサイトを作ったタイミングで丁度ネットとテレビとで立て続けにこの件を目にして、流れを感じたのでカートに放り込んだ。



滋賀医科大学生母親殺害事件について5年前に知った時、「モンスターを倒した」というフレーズにまず強く共感した。子供にとっての親という存在は年齢が幼ければ幼いほど絶対的なもので、専門家ですらそれを「宇宙にも等しい」なんて形容していたりする。養育者に求められる水準がどの程度なのかは時代や社会にも影響されるだろうし一概には言えないものの、一定の愛着を育む対象である必要性は普遍的といって良いと思うし、ましてや親が悪意を持って攻撃してきたり、一個として認めず人生を蹂躙してくるような者である場合、子供の人生にとってはこの上ない脅威となる。

人は人であると同時に動物でもある。動物の世界で親が子を害するケースがどのくらいあるのか、その生態が種の繁栄に利するようなケースもあるのか私は知らない。けれどもそれが親であるかに拘わらず、自身の生を妨害するような行動をとる他なのであれば、必然闘うか逃げるかの選択をとる事になるのは想像に難くない。この際闘う選択肢をとって結果親を倒すようなことが実際にあったとして、動物の世界にそれを咎め罰する法のようなものは恐らく無いのだと想像される(ルール自体は色々あるようだけど)。

人は動物でもあるけれども、社会や法律といった概念で互いを守り縛り合うのでやはり人でもある。それが故に、闘争か逃走かの2択を迫られた時、安易に闘争を選択することはできないと誰もが理解している。無論誰も死に至らず誰も大きな傷を負うことなく、あくまで闘いの範囲でことが済んだり闘いを経て和解が成立する場合もあるだろうし、それはそれで1つの道だと思うけど、しかし世の中には理性や悟性を使うとか、新たな知識と見識を取り入れるとか、他人に共感するとか、それ以前に自身の感情を深く感じるとか、自身の人生を享受するとか、そういう人としての正常な機能を失っている人は一定数いて、平たく言えばそういう人には最早言葉も(防衛の為の)武力も当然のように何の効果も齎さなかったりする。その場合意味ある闘争というのは殺害を意味することになってしまう訳だけど、少なくともこれを書いているこの時代のこの場所を含む多くの場所においては、その相手(親)を殺すという選択肢はこちらの人生の自由度をも大きく狭める結果を招いてしまう。

だから多くの人は逃走の方を選択しようとする。物理的な距離を置くということを最優先に考えられれば良いものの、これには幼ければ幼いほど生存の為の現実的な困難が伴う。私も最初にこれを考えたのが11の時で、「この家を離れて一人で生きていきたいと言ったらどうする?」とやや遠回しに親に聞いたこともある。その頃は生き別れになった家族などを探して再会させる番組が複数放送されていて、そういう番組や警察を使ってでも絶対に探し出す、あなたは私の子供なのだから、と返ってきた。決して少なくない情熱を全力で誤った方向に向け続けていた人なのできっと実際に実行しただろう。そう感じさせるだけの熱量があった。私は体力も人を見る目にも自信はあったしそこから離れて生きていく適性自体はあったと思うけれども、流石に社会が「親元に引き戻すべき子供」として認識する実質的な敵となってしまうようでは為す術も無い。

幸いにも私の親には「(高校を卒業する)18になったら親元を離れていい」という認識があったので、私の場合18になれば物理的な距離をとれるだろうという事は概ね確約できた。これは1つには母自身が16の時に実家を出て一人で稼いで勉強し職に就いた背景がある故だろうと考える。それ以降も相変わらず私を幼い子供であるかのように扱うし明らかな干渉行動をとったりはしてきたものの、昔から「可愛い子には旅をさせよ」などと言う人でもあった。

もう1つは私が男性であったことも大きかったかもしれない。私の家庭にも小学生の中学年くらいまでは殴る蹴る髪を引き摺って外に追い出して数時間放置するとかその程度の暴力はあって、このままだと危険だなと感じた私は1年くらいの間独自に身体を鍛えた。元々その年代の平均くらいだった私の身体的頑強さは、それによって恐らく平均的な成人男性にも負けないと思われる程度には向上して、それを察してからの母は基本的には手は出してこなくなった。書いていて思い出したがこの事にも少し失望したような記憶がある、「ああ、(1度として手を上げたことのない)子供を怖いと感じ、怖いと感じたら手は出さないんだな」と。
こういう体験があるから私は最低限の自衛する程度の力は必要だと考えているし女性でもそれは不可能では無いだろうけど、とはいえ男性に比べればやはり難易度は上がるだろうか。

付け加えておくと身体的な暴力は影を潜めたものの、それは罵倒や侮辱、同情や罪悪感を誘引するとか、他人を味方につけてこちらの自由を奪うとか立場を悪くするとか、子供では年季の入った大人に太刀打ちするのがより困難な性質のものに転じて、客観的に理解したり説明するのがより難解な状況の連続を生んでしまったのも確かだった。場合によってはエスカレートする暴力によって適度な傷(証拠)を負った方が助けが得られることもあるかもしれない。身体的暴力は未然に防いだもののそれ以外を助長させてしまった私の判断は、間違っていたとも思わないが、完全な正解とも言い切れまい。事情や背景を突き詰めると同類同根と分別できる要素はあるとしても、直接にその身に触れる現実はあまりに千差万別かつ千変万化だ。

18になれば家を出ることができるとしても、私にとっても18になるまで、少なくとも家にいる限りは「子供は親の所有物」であって、それは子供にとっては気の長くなるような時間だ。こちらの領域を容易に侵害してくる人に対して対策を講じる必要性は依然としてあった。物理的に距離をとる選択肢が無いのなら、逃走の選択肢は限られていて、それは感情を切り離す(解離)とか、感情を凍りつかせる(麻痺)とか、だいたいそういうものになる。不適当な外の世界が変えられないなら自分を、それも社会が健全と看做すようなそこそこの深度の自分ではなく、深いレベルでの組成と構造を変えるしかない。子供は特に感情を切り分けることに長けていて、自身を変質させることで一先ず目の前の理不尽には適応するものの、それが余計に社会への不適応を促進させる。これについてはまた別の機会に掘り下げることにしよう。



私もそれなりの学校に進学して、同様に全く勉強についていけなくなった。ついていけなくなったのか、それともついていかなくなったかの線引きは未だに難しい。秋葉の事件のあらましを知った時の私の最初の感想は「頑張って勉強した加藤に対して、自分は早めにそれをやらないことにした、それが自分の優秀な判断の1つ」だった。加藤もあかりもそして私も、きっと心はとっくにそこに無いのだ。それが運動なのか芸術なのか、友人関係や恋愛なのか、或いはグルメやファッションなのか哲学や宇宙なのかゲームやアニメなのかは分からないが、健全な子供時代を歩む人がそうであるように、自然下における子供は何かしらに興味を惹かれては失って、好きなことやものや人を見つけて触れたり離れたりして、そうして自然に自身を育んでいくのだと思う。優秀な学生の多くは勉強をしろと言われたことが無い、というのは本当にその通りなのだろう。子供の成績が上がらない親に限って、勉強の必要性や子供の努力不足を感情的かつ上から一方的に説き、そうして子供はますます萎縮し意欲を削がれる悪循環に陥る。

私の成績が学年最下位程度にまで落ち込んだのは中学2年の頃でその後はずっと低空飛行だったけど、正直なところもう少し自分を奮い立たせる余白はあった。けれどそれ以上自分に負荷を掛けてはいけないという確かな確信もあって、だから私は表向き多少は勉強しているけど全然伸びない自分を演出するようにした。言うまでもなく、何も起こさない時点では私より加藤の方がずっと優秀で良い生徒である訳で、学校や周囲にとっても私の方が遥かに厄介な存在だっただろう。そうして迷惑を掛けつつ元凶との距離を取りその果てにようやくなんとか最低限の自由を私が手にした一方で、周知の通りその後の彼は決壊させざるを得なくなって人を殺し自らも死を強制させられざるを得なくなった。社会はあまりにも無情だ。

勉学に関してはともかく、自分の家族以外のことを学べた点で私にとっての学生時代は価値のあるものだったと思う。

・間違ったことを言った/した人が糾弾されること
・子供も大人も関係なく正論を言ったり知識や見識を以て論理的に言い負かすこと
・必要ならば大人が子供に謝ること
・真実を捻じ曲げずにそのままを見て言うこと
・自分のことと他人のことを切り分けること

私の宇宙には存在しなかったり一旦は否定されたこれらのことを比較的早い時期に知り、己の環境と照合して俯瞰し相対的に捉えることができるようになったのは本当に良かった。自分は本来正しいのだと知ることができた。ここは私にとっての明確なアドバンテージだったと今でも思う。

偏見というかあくまで私の体験に限ればの話だけど、余裕のある環境に生まれ育った人には彼らには想像も及ばないような状況について(実際に到達するかはともかくとして)想像し理解しようとする心の余裕とエネルギーもあって、一方で同様に虐待や貧困の内に育った人は、体験や感情そのものについては共有できたとしても冷静に受け止めたりそれ以上やそれ以外を想像する余白がなかったりしがちだと感じる。勿論すべてがそうでないと思いたいし、悲しいことに、昨今の政治の中心にいるような人々は生まれも育ちも良くとも上記5項目を含め欠いていると言わざるを得ない訳だが。



私にとっての学校は少なくとも大マイナスを中マイナスにするくらいの効果はあったと思うけれど、とはいえまず根本的に必要なのは親と離れて暮らすことができる状態というかシステムだということも確信していた。
あかりも自分を理解してくれると感じた学校の先生に助けを求めて家に行ったりして、しかし親によってすぐに戻らざるを得なくなり、最終的には連絡を取ることを辞めざるを得なくなった。未成年と関わったり家に入れることに関してはより厳しくなっているので、子供が他人を頼るという行動は余計に困難な世の中になってきている。子供を支配下に置かんとする親ならば助けを求めた先の相手をいとも容易く警察に突き出し、一方的な被害者を演じ切ったりしかねない。そうして助けを求めたい相手を結果として裏切り迷惑を掛ける光景が見えるほど、余計に子供は他人を頼り辛い。

子供に対する親の絶対性については北米の専門家ですら指摘していて、儒教の影響も手伝ってなのか日本を含む東アジアにおいてそれは尚更顕著に思われる。親になるというのはとても簡単なことで、即ち子供を産むことだ。きっと健全な人ほど社会情勢とか経済面とか自身の親としての適性とか子供への対応とか時間や心を割けるかとか、色々想像を馳せてそれを実行可能な自分であるか確認し共に成長していこうとするのかもしれないけれど、時代背景や文化や更にその親との関係性などもあり未熟なまま親の立場を獲得しそこからも成長しない人は必ずいて、そういう家庭に生まれ育った子供が自らの安全と成長機会を得られるシステムというのは今になってもそう見当たらないように思う。昨今大きな都市には家庭に居場所の無い子供が集うような場所が存在していてたまにネットで情報が流れてくるけれど、そうした子供らへの行政の対応は薬物や売春を取り締まるとか、バリケードを張って場所自体を使用不能にするとか、そういう臭いものに蓋をする後手の対応ばかりに見える。居場所のない環境に産まれた子供が安全と安心と成長の機会を獲得できるシステムが作られていけば良いが、法を整備する立場にあるような多くを持って産まれ生きてきた人らにとっては、現状のままの方が格差を固定できて都合が良いのだろうとも思う。



続く「これで一安心だ」に純粋な疑問を巡らした。
私の親は存命で、深く関わろうとすると今でも境界線を容易に踏み越えてくるであろうと警戒せざるを得ない人で、故に10年以上会っていない訳だけど、この経験を通して物理的な遮断が心身の健康を取り戻すことに直結するという訳でもないことを認識している。
元凶たる存在である母を打倒し永遠に相対する必要のなくなったことで呟きの通り安心を得ることができたのか、自然な感情や感覚を取り戻す糸口は見えつつあるのか、当然それ以降の周囲や社会の支援にも左右されるだろうけど、その移ろいについては想像を掻き立てられる。



成長を辞して境界線を喪失した圧倒的強者の一方的な正義と価値観を強制し続けられる限りなく選択肢のない状況下で人を殺さなければならなかったあかりが自らの人生を見出すことができることを、そして同様の境遇に置かれた人々が可能な限り穏やかな手段を以てあるべき自由と健康を獲得できることを、一他者として心から願うばかりである。

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