コンテンツへスキップ

最近の気付き

  • by

1. 出来事そのものではなくそれに対する自身の思考が重要であること, 過去は現在に何の影響も与えないということ

子供の時分加害してきた人(本人的には正義の行いであり私の為にやっているつもり)が親と繋がった人物であり、しかも歪んだ熱血である彼の性質故に今でも私の視界に入る可能性が完全には拭えない。
万が一彼がまた私の人生に干渉してきた場合即座に警察と役所に相談して二度と近付けさせないようにする想定は遠の昔にできているものの、それでもその可能性を考えざるを得ないこと自体が大分しんどくて、頻繁に頭に浮かんでは気が滅入っていた。

これの何よりの問題が、例えば学校での虐めとか職場でのハラスメントの様にその場を去りさえすれば少なくとも関係性自体は終了する、過去に完結したと言い切れることではなく、「今もまた影響を及ぼしかねない」点で、自分の中でも強くそう考えていたところ。

「その出来事は終わったことでありこの瞬間、今と未来に影響を与えるものではない」と逆のことを心の中で意識し唱えることでそれに対する恐怖心が薄れて気持ちが一気に楽になった。

上述通り、そもそもとして冷静に対処する準備はとっくに出来ているし、実際今の自分ならスムーズに実行できると思う。しかしそれは理性の問題であって感情の面では恐れていたし、「また干渉されるかも」と強く意識してしまっていて、出来事自体ではなくそういう自分の中での反芻される思考の方が私を苦しめていたわけだ。

万が一があっても十分対処可能だし、それを含めて今の私にはもう何も影響を与えない。



2. 身体にも知恵があるということ

心の問題が身体に与えた変化を、身体側へのアプローチによって修復しようと試みてきた。
自分なりにとはいえ比較的早い時点から試行錯誤してきたものの効果はなくて、近年の自分の中では「結局心の側へのアプローチも必要」と結論していた。

『喜びから人生を生きる!』を読み返していて、これについての解像度が上がった。

本当の自分でいるために病気のような口実を必要とすればするほど、あなたの身体は治癒の動機を失っていき、病気は一層長引くでしょう。身体には知恵があり、「もし病気が治れば、また自分を犠牲にしてでも他人を喜ばせようとするだろう」と知っているのです。(p306)

元の、本来の完全な状態にあったとして、10代の私がとった選択は、間違いなく「私」と「親にとっての望ましい私」を両立することだった。ある時点までは概ねそれをやれていたし(分離の得意な子供だからこそだったのだろうけど)、親の過度な干渉を牽制できれば、それを適宜受け流せるならばきっとやれるだろうと。
でも結局のところそれは無理には違いないし、私にとってはストレスであり、自然でない生き方であることに相違はないのだ。受け流せるとは言っても毎回毎回私の話を否定・批判し、私の決定に強く介入し、それらに対してネガティブな反応を隠さない人が私にとって問題でないはずがない。

20代の私なら、ある段階まで自分の人生を仕上げたうえで、過去のことは水に流したとして最低限親の世話を焼いただろう。親は十中八九、表面的な謝罪の言葉くらいはあったとしても、過去を反省したりより根本的な問題に切り込むことはせず、「自分(達)は一生懸命やった、ようやくそれを子供が分かってくれた」として隙あらば私の人生への干渉を試みただろう。私の中に沈殿したものが解剖されることは永遠になかったと思う。

身体と心はそれを理解していて、それ故機能停止したままの状態を必要とした。というか、例えば「勉強ができてはいけないな」というのは直感としてあった。秋葉やその他の事件を知った時最初に感じたのは、「彼(ら)は無理の限度を超えたからここまでやらざるを得なくなった、自分はベースの部分では親の望む自分であったものの、クオリティに関しては完全に放棄した、だから人生を完全に捨てるようなことまではやらずに済んだ」。

完全な良い子にならずに済むよう、身体もストッパーを掛けていてくれていたのだなと、私が主体的に選択した自分自身の人生を最優先させることが決定されるまで機能しないよう私を守っていてくれたのだなと、漸く理解に至った。

タグ:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です